ごみの世界に魅せられて
服部雄一郎
翻訳家・文筆家。1976年神奈川県生まれ。元・葉山町役場ごみ担当職員。
バークレー、チェンナイ、京都を経て、高知県の山のふもとに移り住む。
妻+3人の子どもとともに、できるだけ自然に近いたのしい暮らしを志す。
<著書>
・『サステイナブルに暮らしたい』(アノニマ・スタジオ)
・『サステイナブルに家を建てる』(アノニマ・スタジオ)
<訳書>
・『ゼロ・ウェイスト・ホーム』(アノニマ・スタジオ)
・『プラスチック・フリー生活』(NHK出版)
・『土を育てる』(NHK出版)
・『ギフトエコノミー』(青土社)
・『みんなの地球を守るには?』(アノニマ・スタジオ)
・絵本『エイドリアンはぜったいウソをついている』(岩波書店)
翻訳、文筆、トークイベントなど、小さくいろいろ展開中(取材・執筆・講演などのご依頼はお問合せページよりどうぞ) 。トークイベントは、「ゼロウェイスト」「プラスチックフリー」「サステイナブル」「リジェネラティブ」「移住生活」「翻訳の仕事について」など様々なテーマで、全国各地の企業・自治体・市民団体にご依頼いただいています。お話し会情報は、facebook、instagramなどでもご案内しています。
<連載>
・月刊『女性のひろば』巻頭カラー連載「サステイナブルに暮らす」(2024年1月号~12月号)
・機関誌『家庭科通信』連載「サステイナブルを生活に」(2024年9月号~スタート)
・わが家のごみ減量チャレンジ(ウェブ連載)「翻訳者服部雄一郎のゼロウェイストホームへの道」(全11回)
・夫婦のおしゃべり形式で暮らしについて語るウェブメディア「ライフハガー」の連載(更新中)
妻、服部麻子のブログ「食手帖―高知の山のふもとより」もあります。料理、本、季節のことなど、ふだんの暮らし模様を綴っています。
↓より詳しいストーリーはこちら。
目次
▶ごみと無縁の20代
20才の終わりまでは、ごみに何の関心もなかった自分。きっかけは転職でした。
それまでは大のアート好き。音楽や舞台芸術の事務方(制作)の仕事をしていて、都内のオフィスや劇場を日々渡り歩き、舞台三昧+外食三昧+ごみ捨て放題の夜型生活をめいっぱいたのしんでいました。とてもたのしい毎日だったけれど、自分自身がアーティストではないので、「常に引き立て役」と言うか、「自分が動く」よりも「人に動いてもらう」ことが中心の日々。何とない不全感も抱いていました。
自分もアーティスト側の人たちのように、“自分自身が動く”存在になりたいなぁと思いましたが、今さら音楽家になれるわけでもなし。「はて、何ができるだろう???」と思ったとき、頭に浮かんだのは「翻訳」の2文字でした。すぐさま仕事をやめて大学院に行き、フランス文学の翻訳で名高い野崎歓先生のもとで(留年含めて)3年間も翻訳論を学んだり、仕事の傍ら東京日仏学院で堀茂樹先生の文芸翻訳のクラスを受講したりしましたが、時は既に出版不況の真っただ中。考えれば考えるほど、「翻訳での自立」はいばらの道に思え、踏み切る勇気のないまま、再びアートの事務方の仕事に戻りました。
そんな折、子どもが生まれました。すぐに思い知ったこと、それは「育児をたのしもうと思ったら、夜中心の舞台芸術の世界では大した仕事は望めない」ということ。しかも、子どもは発達障害のせいか、覚悟していたのの数倍手がかかります。睡眠不足で満員電車に乗り込む朝が増え、楽しんでいたはずの出張は重荷になり、毎日なるべく早く帰宅しようと効率性ばかり考え、仕事への意欲が急速にしぼんでいくのを感じました。
「もうどこでもいい、なるべく家に近い職場に転職しよう!」と心に決めた数日後、自転車で15分の場所にある町役場の「中途採用1名募集」の記事が目に飛び込んできました。「自転車通勤=まるでドイツのよう!」という、たったそれだけの理由で転職を決めました。29才の時でした。
▶「ごみが消える」という衝撃の体験
町役場で、よもやの「ごみ担当」に配属されたことが運命の分かれ道でした。正直、最初は「よりによって……」と思わないこともなかったのですが、役所の仕事は意外に待ったなし。初日からバンバン電話がかかってきて、ありとあらゆるごみの分別を質問されますし、窓口にも次々に人がやって来ます。公務員に風当たりの強い時代、うまく質問に答えられないと、「まったく役所の人って何にもわかっていないのね!」と怒られかねません。怒られたくない一心、年上の中途採用なのに「使い物にならない」と思われたくない一心で、必死にごみの分別ルールを頭にたたき込みました。
自宅でも、ごみ担当職員が分別違反をしたら何を言われるかわからないと、真剣にごみの分別をはじめました。「生ごみ処理の補助制度」の担当にもなり、それまで見たことも聞いたこともなかった「コンポスト」のコツについても毎日あれこれ窓口で質問されます。「これは自分でもやってみなければ埒が明かない」と、庭で人生初の生ごみ処理もはじめました。
ごみ中心ののどかな新生活。資源物はきっちり分別、生ごみは毎日庭のコンポストに投げ入れ、「減ったかな?」「見た目全然変化なし」と自然観察さながらにワクワク過ごしていると……なぜか台所のごみ箱が2週間経っても3週間経ってもいっぱいになりません。それまで週2回必ず燃えるごみを出していたのがウソのように、ごみがほとんどなくなってしまったのです。
いろいろ知った今から思えば、これには何の不思議もありません。燃えるごみの半分近くは「生ごみ」なので、生ごみ処理をすれば、燃えるごみは一気に半減します。また、一般的に燃えるごみにはたくさんの「資源化できる紙類」や「容器包装プラスチック」が紛れ込んでいます。これらを正しく分別すれば、残るのはガムテープや宅配便の伝票、絆創膏などの雑多な「小物」ばかり。だから、ごみが激減したのは当然と言えば当然なのですが、それまで舞台芸術にかまけていた自分がそんなことを知る由もありません。
「減らそうと思ったわけでもないのに、ごみがほとんどなくなってしまった。」
これは衝撃的な原体験でした。折しも町では、高額なごみ処理費が槍玉に上がり、議会でも問題視されていました。「こんなに簡単にごみは減るのに、こんなに税金を使ってごみを処理し、みんなが怒っている。何て不思議な現実だろう」―――ごみの仕事が一気におもしろくなった瞬間でした。
▶ゼロウェイストとの出会い
当時(2006~2010年)、葉山町のごみ政策はたまたま大きな転換期にありました。大規模なごみ処理施設の建設計画に異を唱え、「ゼロウェイスト」によるごみの徹底減量を求める市民運動が起きていて、その流れを汲む新町長が当選。これが自分とゼロウェイストとの出会いとなりました(当時市民運動に関わられていた方々には本当に感謝です)。
自宅で「ごみは本当に減る!」と実感していた自分にとって、ゼロウェイストはきわめて現実的で理にかなった考え方のように思われました。そして、海外のゼロウェイストの事例をリサーチしていくと、「ごみの国際比較」という、これまた信じられないほどおもしろい領域を発見することになりました。
自分は知りました。世界のほとんどの国には「燃えるごみ」がないこと。日本が世界一の焼却大国であること。日本ほど細かい分別をしている国はないくらいなのに、なぜか日本の資源化率は異様に低いこと(詳しくはこちらの記事にまとめてみました)。
思えば、世界中のすべての人がごみを出しています。ごみと無縁でいられる人はだれ一人いません。と同時に、ごみは増えもするし、減りもする。同じようなごみを「処理する方法」も様々なら、ごみを「見る目」も様々。お金をかけることも、かけないこともできる。それまで縁遠く感じていた環境問題がいきなり足元に見つかったような、自分の生活が世界のすべての国々とつながったような、刺激的な感覚にワクワクしました。 ごみは言うなれば人々の価値観を映し出す鏡のような存在でした。知れば知るほど、おもしろい世界でした。
『ゼロ・ウェイスト・ホーム』(アノニマ・スタジオ)の訳者あとがきにも書いたとおり、 その後、葉山町のゼロウェイスト計画は、思うような成果にはつながらなかったのですが(※僕の退職後、葉山町のごみ政策は切り口を変えて目覚ましい成果を出し、今は“先進自治体”となっています)、この稀有な数年間は自分の人生を変える体験となりました。ごみ処理に潜む無限の可能性。そして、どんなに「理にかなっている」と思われる政策でも、容易には支持を得られないという皮肉な現実。変化を起こすことの途方もない難しさ。力不足を実感し、さらに海外のごみ処理とゼロウェイストをこの目で見てみたいという気持ちも湧き上がり、自分は30代半ばを目前に控え、「人生最後のチャンス」とばかりに家族でアメリカに旅立ちました。公共政策大学院で環境政策を学んでみることにしたのです。
▶バークレーで見たもの
2年間を過ごしたのは、「ゼロ・ウェイストのメッカ」カリフォルニア州のバークレー。大学院では、経済学や統計学、費用便益分析など、環境政策の最適化のための専門的スキルをみっちり学んだのですが(大学院のなつかしき日々については過去ブログに書いています)、そうした授業の細部というものは、時間とともにどうしても薄れがちなもの(汗…)。やはり、自分にとっていちばん大きかったのは、カリフォルニア州政府の廃棄物部局で学生コンサルタントの真似事をさせてもらったり、パワフルな廃棄物NGOのインターンをしたり、様々な施設を関係者として近くで見学させてもらったり、「ゼロウェイスト政策の第一線」と言える現場を見聞できたことだった気がします(施設見学の様子なども過去ブログの下の方でお読みいただけます)。
日本とはまったく違う、スピーディに最短距離でゼロウェイストを推進しようとする政策のあり方には驚嘆させられっぱなしでした。一方で、「世界屈指のゼロウェイスト都市」であるサンフランシスコの道端にごみがあふれ返っていて、とても「ゼロウェイスト都市」と言える雰囲気ではなかったり、ゼロウェイストを熱烈に議論するオフィスで、スタッフの女性が冷蔵庫を開け、「ありゃ~、みんなで食べようと思ったスイカ、忘れて腐らせちゃったわ~」とトイレにざぶんとカットスイカを流す姿に仰天したり、エコフェスタの活気あふれる会場でも普通に使い捨てカップでコーヒーがふるまわれていたり、自分が日本でイメージしていた「ゼロウェイスト」とのギャップを日々感じて戸惑ったこともなつかしく思い出されます。
この頃の自分は、まだ「政府がどうごみの減量を進められるか」という政策面からのみ、ゼロウェイストを捉えていました。ほど近いサンフランシスコ近郊の町では、既にベア・ジョンソンが徹底的なゼロウェイスト生活の挑戦を開始していたはずなのですが、まだその頃は著書も出ておらず、自分は彼女の存在をまったく知らないままでした。プランターを使って生ごみ処理くらいはしていたものの、それ以上に「自分のごみを減らす」という発想は持ちえず、いつも近所の量り売りスーパー(=今から思えばものすごく恵まれた環境)で買い物していたにも関わらず、マイ容器を持参することなど思いつきもせずに、毎回売り場に備えつけのビニール袋にドライフルーツや粉を量り入れて買い物をしていました。
▶想像を絶するインドのごみ事情
さて、お次はインド(長すぎですね。。。なかなか終わらないので、端折りながら書くことにします)。
バークレーの大学院を修了後は、インターンをしたゼロウェイストNGOのインド・オフィスで短期契約スタッフとして6か月間働くことにしました。場所は南インドのチェンナイ。僕たち家族にとって、初の発展途上国です。周囲は見渡す限りインド人ばかり。半年の滞在中、日本人を見かけたのはたったの2回。子どもたちも現地のインド人ばかりのフリースクールに通い、ひたすらインド一色の環境で半年間を過ごしました(インドでの日々についてはこちら)。
インドは人口13億の大国ですが、その大量のごみを適正に処理できるごみ処理施設がまだ国内にほとんどまったく存在しないという、壊滅的なごみ事情を抱えています。都市も田舎も、文字通りごみだらけ。集めたごみは町のはずれにただ山積みされ、世の終わりのような「ごみの山脈」が累々と続きます。その山脈に「waste pickers(=ごみ拾い人)」と呼ばれる貧しい人々が住みつき、ごみの中から資源として売れるものを探し出し、劣悪な環境の中で生き延びています。
その「waste pickers」の支援(=資源化を担う価値ある労働力として地位を向上させていく)こそが、わがゼロウェイストNGOのメイン事業のひとつで、これには 「同じゼロウェイストと言っても、場所が違えばこれほど様相は異なるものか」と愕然としました。適正なごみ処理施設の建設も、既に法律では大昔から定められているにも関わらず、その施行が10年経っても遅々としてまったく進まないという、何とも絶望的な現状です。言葉は悪いかもしれませんが、あまりにも全体がメチャクチャなので、何をどう進めていったらよいのか、まったくわからなくなってしまうような感覚もありました。
▶オーロヴィル、そして現在に至る
インド滞在も後半に入った頃。プロジェクト終了後の職探し(このままインドに残ろうか、または別の国に行こうか…)をする中、ふと思い立って、オーロヴィルという世界的なエコビレッジに小旅行をしたことが、現在の山暮らしにつながる決定的な一歩となりました。詳細はまた別の記事に書きたいと思いますが、そこで目にしたエコロジカルかつユニバーサルな営みの力に、圧倒的なインスピレーションをもらったのです(それらの旅行の日記はこちら)。
自分はそれまで「ゼロウェイスト」や「サステイナビリティ」を志向していると思い込んでいました。でも、オーロヴィルという世界で実際に繰り広げられる営みの数々を目の当たりにして、実はゼロウェイストやサステイナビリティの“可能性を机上で論じる”ことしかしていなかったのだと気づかされたのです。そして、本当は「可能性を論じる」ばかりではなく、「自分自身がそれを生きてみたいのだ」と。
別に大それたことができると感じたわけではありません。そこにあったのは、理屈抜きの「純粋な欲求」のようなもの。「都会のオフィス生活」という制約から一度自分を解き放って、自分なりの世界を自由に見出してみたいと思いました。
もちろん、個人の実践なんてあまりにもささやかです。政策が社会を動かすパワーなどとは比べるべくもない。とは言え、実際に生活を変えてみようとする人の数は驚くほど少ないし、そこにはやはり、大規模な政策には決して作り出せない種類の、たしかなきらめきやよろこびがあるはずで(もちろんピンチや失敗も…)、だからこそ見えてくる/伝えられる価値もあるのではないか――そんなふうに感じたのです。
そして帰国、現在に至ります。高知に移住し、あっという間に5年が経ちました。紆余曲折を経てたどり着いた、偶然の山暮らし。とうの昔に諦めたはずの「翻訳」も、「ごみ本の翻訳者」という予想外の形で実現し、今は家族5人、5年前には考えもしなかったビビッドな日々を生きています。「こんなことができたらいいな」という願い。「こんなやり方を発見した!」というワクワク。思い通りにならないことや、夢のまま終わるかもしれないことも含め、いつもたのしく前向きに。このブログはそんな現在進行形の暮らしを綴っています。