マイボトルが真の威力を発揮する時

実は、10代の頃からペットボトル飲料をほとんど買ったことがありません。なぜか? それは高校の家庭科の先生のお陰です。わが人生に多大な影響を与えたその教えは2つ。

その1.清涼飲料水にはしばしば角砂糖10個分以上の砂糖が含まれている

「えっ、そんなに!?」――素直だった高校生の自分、慄きました。まさか、清涼飲料水を1本飲むだけで、WHO(世界保健機関)が「1日の砂糖摂取量はこのくらいに抑えましょう」と言っている量をオーバーしてしまうとは…。当時からお菓子が大好きだった僕の頭の中:「清涼飲料水とお菓子、どっちを取るべきか!?」→「答えはもちろんお菓子!」

その2.「原材料欄を読みなさい」

高校の家庭科の授業で様々な添加物について学び、原材料欄を読む習慣を身につけたことは、わが人生を変えました。清涼飲料水について言えば、それまで「ファンタグレープ」が大好きだったのですが、ふとファンタグレープのボトルをまじまじと眺めると「無果汁」の文字。「無果汁って一体!?」――不気味な添加物の数々について学んだ直後だっただけに、一気に気味が悪くなり、以後、ファンタを一度たりとも手にすることはありませんでした。 

以上2つの「教え」に加えて、高校生の頃から「極度の貧乏性だった」こともペットボトル離れに拍車をかけました。いや、「貧乏性」と書くと響きが悪いので、「味覚が鋭敏だったため」と言い替えておこう。つまり、ペットボトルのお茶を飲むと、家で飲んでいる麦茶やほうじ茶に比べて、あまりに不味いので(失礼!)、毎回100円を損しているような気がしたのです。同級生がこぞって飲んでいるミネラルウォーターも(たとえばエビアン)、家の水道の水と大差ないように思われ、なぜこの水に100円もの大金を支払わなければならないのかが当時の自分にはまったく理解できなかった。「この100円を節約すれば、みんなが30回飲む間に、すぐに3000円貯金できる!」と小躍りした自分は、まだ若いのに経済観念が発達していたと言うべきか、あまりに器が小さかったと言うべきか…。

以後10年以上にわたり、「ペットボトル=余計な出費」を金科玉条とし、お茶入りの古めかしい筒型タッパーを持参し続けたのですが、その姿は、大学の同級生である妻にも「奇異な光景」として記憶されているそうです。


▶わがマイボトルの概念を変えた鮮烈なワンシーン

時は流れて、30代半ば。アメリカ留学中の話です。 初の英語生活で、課題に追われ、心も体も毎日ギリギリの状態。朝、徒歩数分の幼稚園に子どもを送り届けてから授業に向かうのが日課でしたが、その日も課題のことで頭がいっぱいで、気分はどんより。うっすらとした劣等感の中、ろくに子どもの顔も見ず、機械的に幼稚園への道を進んでいると、一人のアメリカ人の少女が横をダーッと走り抜けていったのです。

見ると、わが子の同級生。振り返ると、遥か後ろの方から、スラッと背の高い彼女の母親が、 下の妹を乗せたベビーカーを押しながら、悠然とついてくるのが見えました。

彼女(母親)は、同じ公共政策大学院の博士課程に所属する学生です。まだ小さい 二人の女の子を育てつつ、博士課程に学び、既に助手として授業もいくつか受け持ち、その上さらに幼稚園のPTA役員までこなす、文字通りの「スーパーウーマン」。 いつもクールな目をしていて、近寄りがたい雰囲気の人でしたが、 その彼女が、まだ淡い朝の光の中、ゆったりとスローモーションのように歩を進めていたのです ―― 弾丸のように走り去った娘に寸分の動揺も見せず、コーヒー入りのマイボトル片手に、ただ泰然と。

その光景はまるで超常現象のように感じられました。すべてが謎でした。なぜ彼女がこんなにも落ち着き払っているのか。なぜ子どもの勝手な動きにイライラしないのか。なぜ、朝の多忙な時間帯に、自分のコーヒーまで用意する余裕があるのか。一体どういう時間の使い方をしているのか。そこまでしてコーヒーが飲みたいのか――。

一糸の乱れも見せず、まるでカフェのテラスにでも腰掛けているかのような佇まいで、優雅にコーヒーを口に運びながらベビーカーを押す姿は、もはや別世界の人間でした。そして、彼女の手に光る「マイボトル」は、バークレーの地で絶大な人気を誇る、エコロジカルで先進的な「クリーンカンティーン」のボトルだったのです。

今から考えれば、実は彼女だって多少は慌てふためいた朝を過ごしていたかもしれない。マイボトルの中のコーヒーも、朝食の席でゆっくり飲むことの叶わなかったコーヒーメーカーの冷めた残りを、やむなく水筒に入れ替えて持ち出しただけだったかもしれないし、走り出した子どもを追わなかったのも、単に疲れ切っていて、追う元気がなかっただけかもしれない。ついさっき、子どもを叱りつけたばかりかもしれません。

でも、“クリーンカンティーン入りのコーヒー片手に子どもをゆったり幼稚園に送っていく”という、その構図の圧倒的な輝かしさに、自分はやられてしまったのです。「これこそが目指すべき姿だ」と感じました。「クリーンカンティーンにコーヒーを入れて、悠然と飲みながら歩けるような人間にならなければならないのだ」と。


▶クリーンカンティーンのマイボトル

以来、一貫してクリーンカンティーンのボトルを愛用している自分です。最近はおしゃれなマイボトルのブランドが増えてきたようですが、個人的にはクリーンカンティーンを超える存在は皆無。ミニマルで洗練されたデザイン。安全性への配慮。ブランドイメージ。すべてが花丸です。

現在の愛用ボトルは、「インスレート リフレクト」。オールステンレスのシンプルなデザインで、トップに再生可能な素材の象徴である竹があしらわれています(※完全ステンレス製のタイプもあります)。フタの内側部分に細い細いシリコーン製のパッキンが使われている以外は、見事にプラスチックフリー。ダブルウォールの真空断念構造なので、あたたかい飲み物や冷たい飲み物もOK(※公式サイトには「インスレートリフレクトは保冷機能のみ」と書いてありますが、あたたかい飲み物もある程度はあたたかく保ってくれます)。

竹+ステンレスの保温ボトル、インスレートリフレクト

人によっては、フタを締めるときにややきしむような金属音がするのが気になるかもしれませんが、それは「100%ステンレスのフタ」の代償。いやな人はオール金属でないタイプ(BPAフリーのポリプロピレンのフタがついているタイプ)を使えば問題ないと思いますが、自分としては「100%ステンレス」の方が価値は大きいです。

↓愛用しているリフレクトボトル。ツヤ消しタイプもあります。

↓竹のフタでない、完全ステンレスのタイプ(次はこちらを買ってみようかな…)


▶マイボトルが真価を発揮するとき①「家の中」

何を隠そう、クリーンカンティーンのボトルがいちばん活躍するのは「家の中」かもしれません。もちろんそれはわが家が「自営」というライフスタイルだからですが、マイボトルが「外出専用」でないのは紛れもない事実。保温機能のあるボトルなら、朝のコーヒーや紅茶、ハーブティーを熱々の状態に保ってくれます。普通のカップならすぐに冷めてしまうので、せっかく淹れたコーヒーやお茶を大慌てで飲み干す羽目になるところ、ボトルに入れれば、その幸せを1~2時間にわたって持続させることができます。

一度お茶を淹れるだけで、時間をおいて何度も熱々の状態でたのしめるのも◎

この「クリーンカンティーン片手にPC作業に没頭できる時間」は、自分にとっては贅沢そのもの。「ああ幸せだ…」と喜びを噛みしめながらPCに向かっています。


▶マイボトルが真価を発揮するとき②「空の旅」

もうひとつは、空の旅。かばんの中にマイボトルを忍ばせておくと、機内サービスのコーヒーや紅茶をボトルに詰めてもらうことができます(機内サービスの飲み物って、もう少し味をどうにかできないものかと思うのですが、そこは当面あきらめるとする)。

メリットは、単に「使い捨てカップのごみを減らせる」という環境面だけではありません(もちろんそれも重要です)。最大のメリットは、「揺れる機内で飲み物をこぼす恐怖から解放されること」。特に子どもです。機内サービスが来ると、いつも子どもが最後の一滴を飲み干すまで「いつこぼすか」と緊張状態が続き(しかも子どもってなぜか延々飲み終わらない)、かと言って、無料のジュースに目を輝かせている子どもに「こぼすのが心配だから、ドリンクはリフューズしなさい」と言うわけにもいかず。

子どもだけではありません。使い捨てカップは、飲み終わってなお、壮絶に邪魔な存在です。前の座席のポケットに無理やり押し込んでも、膝が当たって中の水滴が弾け飛んだらどうしようと気になって、落ち着いて本も読めやしない。「一刻も早く回収してもらいたい」とキョロキョロ見回しますが、そういうときに限って、客室乗務員さんはいつまでも現れてくれません。そしてウトウトと眠り込み、ハッと目覚めたときにはいつの間にか回収が終わり、自分の座席ポケットにまださきほどの使い捨てカップが醜く突き刺さったままになっているのを見る徒労感…。

こうしたすべてから自由になれる精神衛生上のメリットは絶大です。空の旅のクオリティが確実にアップします。周囲を見渡すと、マイボトルにドリンクを入れてもらっている人はだれひとりいません。みなさん、こぼれないように戦々恐々としていてお気の毒…。自分はと言えば、マイボトルのフタを鼻高々にきっちりと締め、まるでホテルのラウンジにでもいるかのように、いつまでもゆったりと自分のペースで温かいコーヒーをたのしみます。マイボトルの価値が最高潮に達する瞬間です。


「バークレーの記憶」から約9年。いまだ「コーヒー片手に子どもを送る」というゆとりは手にしていませんが、持つたびに嬉しいクリーンカンティーンのマイボトルは、自分にとって、今なお「向かうべき方向性の指針」のような存在であり続けています。

わが家は子どもたちもクリーンカンティーン。右端のものは子どもが車のドアに挟んでへこませてしまいましたが、まだ現役。もうロゴもかすれています。